村上春樹、河合隼雄に会いにいく

村上春樹、河合隼雄に会いにいく

村上春樹、河合隼雄に会いにいく

タイトル通り、村上春樹が京都在住の河合隼雄のもとへ会いにいって、対談した内容。テープから起こした原稿には、基本的にほとんど手を加えていないらしい。会話の補足がフットノートとして挿入されているので、初めは会話だけを追い、2回目にはフットノートを中心に読み進めるという形で読んだ。まだ消化し切ってないけど、とりあえず書きたいことだらけなので書く。
小説を書き始めた頃の村上氏には、当時の文壇ギョーカイには真似したいと思えるスタイルがなかったらしい。そこで、既存の作家のスタイルとはまったく逆のスタイルに取り組んだ。それは、朝早く起きて、夜早く寝る、注文を受けて小説を書かない、などなど。

ほとんど何もないところに、自分の手でなんとか道を拓いて、僕なりの文学スタイル、生活スタイルを築き上げていかなくてはならなかった

と話す村上氏に対して、河合氏が返す。

図式的に考えた反抗へのコミットメントが、頭だけの線香花火的に消えていくのに対して、「自分なりのスタイル」を築くために、自分全体をあげてコミットメントをしなくてはならなくなる。そしてそこから自分の「作品」が生み出される。

ここで言う「作品」の意味は、すぐ後で氏が述べるように、芸術作品にとどまらない。生き方、人生そのものとしての意味をもつ。誰もが村上氏のようにゼロから自分だけのスタイルを築き上げられるわけじゃないんだろうけど、「作品」を豊かにするためには、少なくとも、河合氏の言うように自分全体でコミットメントする必要がある。

それで、おもしろいのですが、彼らが求めているのはデタッチメントなんですよね。つまり自分が社会とは別の生き方をすること、親とは別の行き方をすること、そういうものをぼくの小説の中から読み取って、そこにある程度思いいれをするというところがあるみたいですね。

村上氏の作品は、社会へのデタッチメントのロールモデルとして読まれているという話*1。特に、「家族、一門のつながり」が大きな意味を持っている、日本や韓国、中国人が似たような読み方をしているらしい。ただし、社会へのデタッチメントを「反抗する青年*2」というイメージで語るのは、もう通用しないと河合氏は後書きで述べている。

その人にとってものすごく大事なことを、生きねばならない。しかし、それをどういうかたちで表現するか、どういうかたちで生きるかということは、人によって違うのです。ぼくはそれに個性がかかわってくると思うのです。生き抜く過程のなかに個性が顕在化してくるのです。

と河合氏。

コミットメントというのは何かというと、人と人とのかかわり合いなのだと思うのだけれど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。

と村上氏。この両氏の感覚は、今、ウェブによって非常に具体性を持ち出している。梅田さんの「世の中という無限から、自分という有限へのマッピング」という言葉を、あらためて思い出す。
まだまだ面白い箇所はあるんだけど、2回読んだぐらいじゃ理解し切れないので、また理解できたら書く。10年以上前の本なんだけど、「ウェブ時代をゆく」とのつながりが強い気がして仕方ない。

*1:ロールモデルという言葉は使われてない

*2:学生運動や、いわゆる「元気のない学生」といった文脈で語られる若者像